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東京高等裁判所 昭和42年(ネ)2747号 判決

主文

本件各控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人等の負担とする。

事実

控訴代理人は、「原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は、控訴棄却の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張及び証拠の関係は、次に附加するもののほかは原判決事実摘示のとおりであるから、ここにこれを引用する。

被控訴代理人は、新たに甲第一、二号証を提出し、被控訴本人尋問の結果を援用し、乙第一号証の一ないし三の成立を認めると述べた。

控訴代理人は、新たに乙第一号証の一ないし三を提出し、控訴人長和子及び控訴人長宗助各本人尋問の結果を援用し、甲第一、二号証の成立を認めると述べた。

理由

公文書であることより成立を認め得る甲第一、二号証、原審証人井野口武夫の証言、原審での被控訴人(第一回)及び控訴人長宗助(第一回)並びに原審及び当審での控訴人長和子本人尋問の結果によると、控訴人宗助は昭和三十四年十月中旬頃井野口武夫からその妻の弟に当る被控訴人万吉を紹介され、自身に男の子がいなかつたところから同人を控訴人宗助と同マツ夫婦の養子として迎えるとともに長女である控訴人和子とめあわせようと考え、右養子縁組及び婚姻の話をすすめ、被控訴人万吉は同年十二月二十八日の足入れを経て昭和三十五年三月七日控訴人和子と婚姻の式を挙げ、同日から控訴人宗助及びマツ夫婦と同居して事実上の養子及び婚姻の生活に入り、同年四月十八日控訴人宗助及びマツ夫婦と養子縁組の届出をなすと同時に控訴人和子と婚姻の届出をしたものであること、しかして、被控訴人万吉は昭和三十五年十二月二十九日控訴人和子との間に長男浩臣を儲けたが(但し、出生の届出は昭和三十六年一月一日である)、同月八日夜控訴人宗助方を飛び出し、以後控訴人等とは同居することなく今日に至つていることが認められる。

ところで、被控訴人万吉は控訴人宗助及びマツ夫婦との間には民法第八百十四条第一項第三号に定める縁組を継続し難い重大な事由があり、控訴人和子との間には同法第七百七十条第一項第五号に定める婚姻を継続し難い重大な事由があるとして、離縁及び離婚を求めているが、本件においては右の二つの事由が互に密接に絡み合つているものと認められるので、以下これをあわせて判断することとする。

成立に争のない乙第一号証の一ないし三、原審証人井野口武夫、須永喜三郎、窪サイ、酒巻タカ、松村金之助、長光代、中村芳松、熊谷太平及び山藤仲助の証言、原審竝びに当審での被控訴人(原審第一、二回とも)、控訴人長宗助(原審は第一、二回とも、但し後記措信しない部分を除く)及び控訴人長和子(但し、後記措信しない部分を除く)各本人尋問の結果をあわせると、次のような各事実を認めることができる。

被控訴人万吉の姉の夫である井野口武夫はもと間借をしていた橋本モト方で控訴人宗助と知合つたが、昭和三十四年十月中旬頃たまたま橋本方で控訴人宗助と会つた際同人が婿養子を探していることを聞き、義弟の被控訴人万吉を是非候補者にしてもらいたいとして同人を紹介したところ、控訴人宗助は被控訴人万吉を長女の控訴人和子とめあわすべき婿養子として迎えたいと熱望し、井野口のもとにたびたび足を運んでその尽力方を依頼するに至つた。そこで、井野口は被控訴人万吉の父母窪周一郎、サイの渋るのを説きつけて了承を得、被控訴人万吉もその勧めに従つて控訴人和子及び養親となるべき控訴人宗助、マツ夫婦と交際をはじめ、控訴人宗助及び和子から優しいもてなしを受けているうち婿入りを希望するようになり、前示認定のとおり足入れ、挙式の運びとなつた。

ところで、控訴人宗助は媒酌人である井野口の意向を尋ねずに足入れの日取を一方的に取極めたため、同人との間で一時感情の対立を生じたが、被控訴人万吉に対してはオートバイを買い与え、洋服を与えるなどの配慮を示し、自宅の二階の貸間を空けて万吉、和子夫婦を住わすべく用意したのであつた。

しかるに、被控訴人万吉と控訴人和子との挙式の当日被控訴人万吉の姉の夫である相場昇蔵が披露後そのまま控訴人宗助方について行き、控訴人マツの着衣にふれていくらで質に取るか、質流れかとか、テレビがないとか、いやがらせをいい、その上内輪で自宅に招待されていた控訴人和子の同性の友人や手伝いの女性に無理に酒を飲ませようとした上、「万吉頑張れ」といい置いて帰つ行つたが、控訴人宗助はこれに非常に立腹し、祝客が帰ると被控訴人万吉に対し「相場は社会党だ。あんな常識はずれの者はいない、家の敷居は跨がせない。万吉も相場の家へ行つてはならない。」といつて怒り、さらに挙式の翌日費用の清算に訪れた被控訴人万吉の母サイに対してもろくに挨拶もせず「相場は披露が終つてから来て娘をかまつたり、万吉頑張れなどといつて人を馬鹿にした。ああいう男には敷居を跨がせない。」と怒り、サイが媒酌人に礼をしようという相談を持ちかけてもなかなか耳に入らない有様であつた。そして、挙式後間もない昭和三十五年三月中旬頃井野口に対し媒酌の礼をすることとなり、サイは電車で、控訴人宗助は被控訴人万吉の運転するオートバイで井野口方に赴いたが、控訴人宗助は帰宅するなり、サイが井野口方に先に行つていたことを非難し、被控訴人万吉のいる前で控訴人マツに向い「万吉の母は常識がない。家が婿養子にもらつたのだから家の方が先に行くのが当り前なのに、向うの方が先に行つているのは常識知らずだ。」と文句をいい、以後被控訴人万吉の親族を事あるごとに非謗するようになつた。

ところで、被控訴人万吉は結婚後それまで勤務していた富士織物を退職し、控訴人宗助方の家業である質商及び貸衣裳業を手伝い、その傍希望によつて普通自動車の運転免許証を取得させてもらつたが、同年四月頃当時控訴人宗助方では階下には同人のみが就寝し、被控訴人万吉及び控訴人和子夫婦と控訴人マツ及び妹の光代らは階下の二部屋に分れて就寝していたところ、控訴人宗助は同月中旬頃から被控訴人万吉に対し屡々男色行為を強要し、同人がこれを避けるようになると、同人をいびり出し、剰え控訴人和子との夫婦生活に干渉しはじめ、二階の寝室に上ろうとする被控訴人万吉を呼び止めて、「今日は和子と一緒に寝るな。毎日和子をいじめるな。」といい、さらに同じ頃数回にわたり午前五時半ないし午前六時頃という早朝被控訴人万吉と控訴人和子が就寝している部屋に言葉かけずに入り込み、腰を下ろして煙草を喫うというような行為を敢てした。被控訴人万吉はいくら養父でも問題であると思い、控訴人和子に控訴人宗助に夫婦が就寝している部屋に濫りに入らないようにしてもらいたいと頼もうと相談を持ちかけたところ、控訴人和子は宗助に怒られるからとして相手にならないので、被控訴人万吉は止むなく寝室の内側から施錠できるよう鍵を取付けた。かように控訴人宗助と被控訴人万吉との間に問題が生じはじめたところへ控訴人和子もまた被控訴人万吉に対する態度が微妙に変化し、結婚前にみせたように優しい態度でなく、恰も番頭に対するがごとく時には命令的態度をとることすらあるようになり、昭和三十五年四月頃被控訴人万吉が控訴人宗助にみせられた紙片には「万吉と結婚して後悔している。お父さんも和子のことを考えてもう少し慎重に行動して欲しかつた。」と書いてある状態であつて、被控訴人万吉は未だ新婚間もないのにすでに控訴人和子の愛情が褪めてしまつたのかと暫く外を歩いて心の憂悶を鎮めたのであつた。そして、控訴人宗助は婿入りに際し媒酌人である井野口等に対し本人さえ来てくれればよいから道具類は持参する必要がないなどといつていたにも拘わらず、同年五月中控訴人宗助の家族が揃つている面前で被控訴人万吉に対し、「万吉は実家の親から小遣をもらつて来なかつたのか、親である以上婿入する子供には借金してでも金を持たせて寄越すのが当り前だ。それに、万吉は貯金もないということだ。誰も裸足、裸で婿に来いとはいつていない。持参した荷物は少いし、式には両親とも出ない、仲間には恥しくて顔向けできぬ。」という意味のことをいい、被控訴人万吉を責め、妻である控訴人和子も少しも夫を慰めようとはしなかつた。そればかりか、控訴人和子は同年七月頃被控訴人万吉の姉酒巻タカが弟を賞め上げたことについて控訴人宗助と一緒になつて被控訴人万吉に向い、「自分の弟を賞めるような姉は何処にもいない。」といつて責め立てる有様であつた。

同年八月頃になると、控訴人宗助等はいよいよ被控訴人万吉に辛く当るようになり、その頃控訴人和子の末の妹幸江がたまたま足利市内で万吉の母サイと出会い、同女が酒巻タカ方を訪れていることを知るや、控訴人宗助は、「近くまで来ていながら、同じ子供の万吉のところへ寄らぬということはない。」と怒り、サイを呼んで来るといつて酒巻方に出かけ、酒巻方でサイに対し顔色を変えて文句をいい、そこへさらに被控訴人万吉と控訴人和子も来て面談していると、控訴人和子は皆の前で被控訴人万吉に対し「私はあんたと一緒になつて一日として面白い、さつぱりとした日はない。毎日あんたと一緒なら死んだ方がましだ、毎日今日死ぬか明日死ぬかと考えている。父がこんな婿をもらつたから、親戚づきあいも出来ぬ。」と愛想づかしのようなことをいい出したので、被控訴人万吉は余りのことに堪えきれず、その場から外へ逃げ出し、漸くにして暗澹たる心持を抑えて酒巻方へ戻つたところ、控訴人宗助等はすでに帰つた後であつたので、同人方へ戻ると、同人方では、燈火がついているのに戸締りをしたまま被控訴人万吉が戸を叩いても入れようとせず、義兄の酒巻清次郎を伴つて来てはじめて中へ入れてもらうことができたのであつた。また、同月中被控訴人万吉が媒酌人の井野口方へ中元の挨拶に赴いた折同人方で夕食の饗応に与る旨を連絡したところ、控訴人和子は準備が出来ていても帰つて来いと言い、控訴人宗助は井野口のような家で食事をよばれて来るなと言い、被控訴人万吉が思い惑いながらも馳走になつて帰つて来ると、誰も同人に言葉をかける者がなく、冷々とした状態であつた。さらに、被控訴人万吉はその頃田沼工業に勤めていたが、同じ八月中控訴人宗助の許諾を得て義兄須永喜三郎方へ手伝に行つていたところ、控訴人宗助は被控訴人万吉と縁組した当時は須永のことを賞め上げ、「いくら犠牲を払つても恩返しをしなければならない。」といつていたにも拘わらず、被控訴人万吉に対し「和子が毎日心配しているんだ、和子がどうなつてもよいのなら手伝に行け、万吉が怪我だの病気だのになつても須永では何の保障もしてくれないだろう。万吉は須永で甘い言葉でもかけられると、すぐ家のことをしやべつてしまう、まるでスパイみたいだ。」等と嫌味を並べ、被控訴人万吉をして右の手伝をやめざるを得なくした。しかも、同じ頃被控訴人万吉が残業のため遅くなり夜九時頃帰宅したところ、控訴人宗助は控訴人マツ、和子及び義妹らのいる前で被控訴人万吉に対し、「万吉はいくら面倒をみてやつても、帰りは遅いし、親との間もめつこくならない。これでは気が休まらない。」「今日遅くなつたのも実家の親のいうとおりにしているのだろう。今になつて分つたのだが、お前は相場の頑張れといつたことを実行している、俺の本当の子なら横ビンタをくれてやるが、他人の子だから仕方がない。俺はオートバイも買つてやつたが、お前の親は何をしてくれた。相場は社会党の先頭で旗を振る男だが、お前は何時から共産党になつたのだ。」などと被控訴人万吉とその親族を悪しざまに罵り続け、控訴人マツは勿論、控訴人和子も被控訴人万吉に助舟を出そうとはしなかつた。のみならず、控訴人和子は同月頃被控訴人万吉が二階の夫婦の部屋へ上つた後控訴人宗助等と話合つた末、被控訴人万吉に向い、父控訴人宗助の命令だとして被控訴人万吉とは別の部屋に寝るといい出し、これをとどめようとした被控訴人万吉の言を聴き入れようとせず、夜具を運んで他の部屋で寝み、その後数回これを繰返した。ところが、同月末頃の夜控訴人宗助が被控訴人万吉に対し連日のように同人の親族の悪口をいつたり、「家の方がいいか、兄弟のところの方がいいのか。」などといつて責めるので、同人は堪えきれなくなり、オートバイに乗つて井野口のところに赴こうとしたところ、控訴人宗助が走り出てて来てオートバイの鍵を奪いとり、代わりに灯火のない自転車を渡したので、被控訴人万吉は止むなくこれに乗つて井野口方に赴きその夜同人方に泊つたが、井野口、須永は被控訴人万吉が控訴人宗助方に入つて二、三箇月後からいろいろ愚痴をいい出し、今同人方にいたくてもいられない状況であると訴えるのを聞き、控訴人宗助に談じ込まねばならぬと考え、翌日被控訴人万吉を伴い酒巻清次郎、窪銀三郎とともに控訴人宗助方を訪れ、同人の親族中村芳松、熊谷太平及び控訴人和子同席の席上で、控訴人宗助に対し万吉、和子夫婦の同衾を邪魔したり、持参した荷物が少いとか或いは万吉の親兄弟の悪口をいつて同人を苦しめるのであれば、同人を引取る旨を申入れ、長時間にわたる話合の末控訴人宗助は漸く自らに非のあつたことを認め、今後理由もなく、被控訴人万吉をいじめるようなことをしない旨を誓約し、同人も控訴人宗助方に戻つたのであつた。

ところが、控訴人宗助はその後半月足らずのうちにまたまた被控訴人万吉に嫌味をならべ始め、同年十月頃被控訴人万吉が犬が家の中でそそうをしたためその鼻を押し付けて頭を叩いたところ、「お前は犬を俺達だと思つて叩いているのだろう。そんなことをすれば、普通の家なら縁切り問題だ。万吉は親達が早く死ねばいいと思つてそんな積りでいるのだろう。」といい、被控訴人万吉がそんな積りは全くないというと、今度は親に素直に謝ることができないのかというのであつた。さらに、被控訴人万吉は同年一月末頃えびす講の日に勤務先田沼工業の招待で夕刻から酒食の饗応を受け帰宅しようとした際オートバイの故障のため遅くなり午後十時過頃帰宅したところ、控訴人宗助は「あんな会社へは明日から行かなくてもよい。」「家は士族で、お前のところは平民だ。平民とは附合わない。」などと絡み、控訴人和子もまた「いくら休みでもこんなに遅く帰るのは考えがなさすぎる。オートバイがこわれる筈がない。早くお父さんに謝りなさい。」とただ控訴人宗助の味方ばかりをし、夫である被控訴人万吉の言葉には少しも耳を藉そうとしなかつた。しかし、同人は控訴人和子が時あたかも妊娠中であり、子供でも生れれば控訴人宗助をはじめ一家の被控訴人万吉に対する扱いも変わり、仲睦じく暮すことができるであろうと思い、堪え忍んでいた。

控訴人和子は同年十二月二十九日男子を分娩したが、被控訴人万吉は妻和子が産院に入院中昼食をしてから、身の廻りの品を持参しようとしたところ、控訴人宗助から「万吉は昼食などをしてから行くのか、一度ぐらいしなくても死ぬことはない。早く行け。」などといわれたこともあつたが、毎日朝晩嬰児(浩臣)のため湯タンポを作り、ミルクを与えたりして尽した。ところが、控訴人宗助は子供が生れても以前と少しも変わらず却つて被控訴人万吉に辛く当ることさえある始末で、人前では優しく、陰に廻わると火のおこし方、水の使い方一つにさえも文句をつけ、ことに昭和三十六年一月初頃被控訴人万吉が砂糖入りミルクを与え、これによつて嬰児が腹をこわした折など同人があたかも毒でも飲ませたかのように「万吉は何をくれたのだ。変なものをくれたから腹をこわした。」といいがかりをつけるようなことを放言した。しかも、控訴人宗助は浩臣に湯をつかわせている際被控訴人万吉に聞えよがしに「これで後継ができて安心だ。」といい、被控訴人万吉などどうでもよいような態度を示した。しかして、同人の母窪サイは控訴人和子の妊娠中晒二反に鍋などを届け、浩臣が生れたとの報に接し控訴人宗助方及び産院を訪れ、米や子供の肌着などを贈物としたが、同年一月七日お七夜と定められた日に控訴人宗助はサイに向い、「万吉は何も道具を持参しなかつたから、子供に上等の箪笥を買つてくれ。」といい、サイが贈る予定であつた宮参りの産衣も紋付の上等のものを要求し、このためサイはさして豊かでないにも拘らず止むなく約金一万三千円の箪笥を買うべく予定し、また金九千円の産衣を注文して手金として金五千円を支払つた。ところで、このやりとりを聞いていた被控訴人万吉は翌八日まず妻である控訴人和子に実家は余り楽ではないので、箪笥は後で買つてもらうことにしたらどうかと相談を持ちかけたが、同女が「父は一度いい出したら後にひかないからそういうことをいわぬ方がいい。」といい。余り相手にしなかつたので、同日夜十時頃控訴人宗助に同じ相談を持ちかけたところ、同人は被控訴人万吉を馬鹿野郎よばわりした揚句「お前の親はお前を犬ころ同然なくれ方をして何んだ。本当の親なら、いくらこつちが断つても、借金をし田地を売払つてでも子供に一通りの道具を持つてこさせるのが本当だ。お前の実家はテレビがあるのだから、箪笥位買えぬ筈はない。そんなことをいうのなら、お前の親が何というか聞いて来い。」と大声で怒鳴り出した。これまで子供が生れれば変るであろうと期待をかけ堪えて来た被控訴人万吉は余りのことに腹を立て控訴人和子に対し「分らずやの親とはもう一緒に暮せないから、よく考えて出て来い。」というと、同女は黙つたまま被控訴人万吉に背を向けてしまつたので、同人は下着類のみを纏め家を出ようとすると、階下にいた控訴人宗助は出て行こうとする被控訴人万吉から右の下着類を取上げ、さらに着ている上着をも剥ぎ取り、胸を蹴りつけたが、被控訴人万吉は隙をみつけてそのまま外へ飛び出してしまつた。同人はその際背後で控訴人宗助が控訴人マツに対し「あんな奴かまわないでおけ。」と叱りつけるのを聞いた。

かくて、被控訴人万吉は遂に養家である控訴人宗助のもとから家出したのであるが、仲人であつた井野口は二、三日後の同月十一日頃被控訴人万吉を伴い控訴人宗助方に話合に赴いたところ、同人は万吉は計画的に飛び出したのだ、出るのを止めた控訴人マツの手を出て行く時に戸ではさんで怪我をさせたとか一方的に被控訴人万吉を責めるばかりであつたので、井野口も被控訴人万吉を引取るも止むなしと考え、控訴人宗助及びマツに対し、万吉は着の身着のままで出て来たのだから下着を出してやつてくれと頼んだが、同控訴人等は実家で買つてもらえという始末で、再三懇願した末下着二、三枚を出してもらうことができた。また、その際控訴人和子は被控訴人万吉に対し「そんなに家が嫌なら自分の物を持つて出て行けばよい。家では十六万円もするオートバイを買つてやつたのに、あんたの家では一万円の箪笥も買つてくれない。」と泣き騒ぎ、子浩臣を儲けた仲でありながら、同人を引き止めようとはせず、同月二十三日頃被控訴人万吉から親元を離れて浩臣を連れて来るようにとの書簡を受領したが、控訴人宗助及びマツ等と暮す方がよい、被控訴人万吉の給料では暮して行けぬ旨の返事を出し、同人とともに生活する意思のないことを表明しさえした。

被控訴人万吉の父窪周一郎はかように被控訴人万吉と控訴人宗助等との養親子関係及び夫婦関係が破綻に瀕するに至つたので、知人の新井藤作に依頼して控訴人宗助と話合をしてもらうこととし、新井は同年二月十六日頃井野口、須永、万吉の兄銀三郎とともに話合のため控訴人宗助方に赴いた。そして、同控訴人のほか控訴人マツ、和子、熊谷太平、中村芳松及び横山亀吉等を交えて話合つたところ、控訴人宗助は当初縁組及び婚姻の際渡した金五万円の結納金を返還すれば被控訴人万吉との縁組及び婚姻関係を解消するといつていたが、横山亀吉が何とか円満にもとの鞘に納まるようにという話をし出してからは全く話合が進まず、ためにさらに後日話合をすることとし、被控訴人万吉の希望により持参した道具類は一応これを同人が引取つて帰つた。ところで、同人が引取つて帰つたアルバム中からは結婚前後の控訴人和子を撮つた写真は全部剥がされていた有様であつたが、その後の話合は離縁離婚するとも、円満にもとへ戻すとも決着がつかなかつた。

そこで、被控訴人万吉は同年四月頃控訴人等を相手方として家庭和合の調停を申立て、同年十月頃まで五回にわたる調停期日が開かれたが、控訴人和子は第一回期日に出頭しただけで、その余の期日に出頭せず、控訴人側では被控訴人万吉に帰つて来いなどとは一言もいわず、かといつて離婚離縁に応ずるでもなく、控訴人和子は被控訴人万吉の許に赴いて同居する心算はない、子浩臣も渡せぬ、浩臣が二十歳に達するまで養育費として向う三年間一箇月金五千円ずつ、その後は貨幣価値の変動によつて額を定めて支払つてくれるよう要求して譲らず、調停は遂に不成立に終つた。しかし、被控訴人万吉は同年十二月二十五日頃控訴人宗助の姻戚に当る中村芳松方を訪れ、同人に控訴人宗助方に戻れるよう斡旋を依頼したこともあつたが、この話も結実せず、さらに昭和三十七年十一月中旬頃自ら直接控訴人宗助方に浩臣への土産の玩具を持つて赴いたところ、玩具は突つ返えされ、話の分る第三者とともに来るようにいわれたため、再び知人の松村金之助とともに訪ねると、控訴人宗助は非常に好意的な態度を示し、家族とよく相談しておくから十日もしたら再訪してくれるよう求めたので、約定どおりさらに十日後松村金之助とともに再訪し、一応詫を入れたところ、控訴人宗助はまるで掌を返したようにその前とは違つた態度で、「いくら謝つても今日家へ入れるわけにはいかない。」「和子とも話合ができない溝ができているから、会わせるわけにはいかない。まず、荷物と相当な裏付を持つて来て誠意を見せなければ入れられない。」「仲人、兄弟の謝り証文、親兄弟との絶縁状を持つて来い。」などといい、同席した山藤仲助や横山の取りなしも肯き入れようとしなかつた。

かくて、被控訴人万吉は昭和三十八年一月控訴人等を相手どり本件離婚及び離縁の訴を提起するに至つた。

凡そ、以上のように認められ、原審竝びに当審での控訴人長宗助(原審は第一、二回)及び控訴人長和子本人尋問の結果中右認定に反する部分は措信し難い。

そこで、右認定の事実に基いてまず本件において控訴人宗助及びマツ夫婦と被控訴人万吉との間の養親子関係を継続し難い重大な事由の存否について判断する。

一般に親子関係で重要なのは血縁と愛情であるといわれるが、「生みの親より育ての親」との諺の示すように生物学的な血縁そのものに価値があるのではなく、親子の間の愛情が親子関係を認むべき第一の要件であり、さらにそれのみでなく親の愛情を以てする子の育成の事実が存在しなければならぬとされる。その点で本件における被控訴人万吉のようにすでに成年に達した者が養子となつた場合には右にいう子の育成の事実という要件が欠けるのであるから、養父母及び養子の双方の間においてより一層親密かつ平和な共同生活を成立させ、これを継続せしめるよう努力すべき必要があることは多言を要しないところであろう。

しかるに、右認定の事実関係をみるとき、養親たる控訴人宗助及びマツ夫婦、ことに控訴人宗助のとつた言動の多くは養子である被控訴人万吉に対する真摯な愛情から出たものとは認め難く、徒らに同人を傷つけ、平和な共同生活の継続を困難ならしめたものといわざるを得ないのである。すなわち、本件縁組は被控訴人万吉よりもまず控訴人宗助の望んだところであり、その故に控訴人宗助は原審での被控訴本人尋問の結果(第一回)にみられるごとく縁組前被控訴人万吉を屡々来訪させては歓待し、何んでも気のすむようにしてやるといい、オートバイを買い与えるなど過大なほどの好意を示したのであるが、これも縁組披露の僅々一箇月後の昭和三十五年四月までに止まつたに過ぎなかつたのである。縁組披露当日における相場の行動は極めて不穏当であつて、控訴人宗助一家に対する侮辱となる点があつたといわざるを得ないけれども、だからといつて相場の非礼を責めるのはともかく、これを以て被控訴人万吉に当り同人を攻撃するのは筋違いというべきである。ところが、控訴人宗助は被控訴人万吉に対し事あるごとに右相場の件を持出して「相場は社会党だ、この家を潰す気だ。お前は相場の言つたことを実行している。お前は何時から共産党になつた。」「お前のところは平民だからつきあえぬ。」などと罵り、被控訴人万吉の持参した道具類の少いことを非難した上、被控訴人万吉の両親を「式にも出ず、荷物を持たせなかつた。」と非難し、些細なことで母サイや姉酒巻タカを「常識はずれの人間だ。」などと悪しざまに罵り、また被控訴人万吉の義兄に当る井野口や須永につき悪意ある言辞を弄し、遂に被控訴人万吉をして一時家出するまでの気持に追込み、その後においても、被控訴人万吉が犬を叩けば親だと思つて叩いているのだろうと嫌味を並べ、被控訴人の帰宅がすこしでも遅いとすぐ文句を言うなど、かくのごときは縁組当初の態度とは打つて変わり被控訴人万吉を著しく精神的に虐待したものというべきである。たとえ、養子たる被控訴人万吉の実父母、親類縁者などを非難するにせよ、真に被控訴人万吉のためを思う愛情と一旦結ばれた縁組を維持継続しようとする意思に裏打ちされているならばともかく、控訴人宗助の右のような言動にはそのような点は少しも認められないのである。

しかも、被控訴人万吉と控訴人和子との間の夫婦関係が円満であれば控訴人宗助方長家の基礎はいよいよ安泰となる筈であるのに、控訴人宗助は被控訴人万吉に対し妻たる控訴人和子と同衾するななどといい、或いは控訴人和子に対し被控訴人万吉と別の部屋に寝よと指示して被控訴人万吉と控訴人和子の夫婦生活に干渉し、早朝夫婦が就寝している部屋に入り込むなど異常な行為を敢てし、加えて被控訴人万吉に対し男色的行為を要求したかにみえる点があるに至つては被控訴人万吉の人格を無視したものであつて、被控訴人万吉に対して重大な侮辱を加えたものというべきであろう。

被控訴人万吉は控訴人宗助及びマツに対し直ちに実父母と同様の親密感を抱き得なかつたにせよ、家業の質商及び貸衣裳商を継ぎ、同控訴人等とも和合しようと決意していた様子が認められるのであるが、控訴人宗助は被控訴人万吉と親子としての親密感を醸成し、互に和合しようと努めた形跡は認められず、却つて被控訴人の意見ないし希望を無視し、昭和三十六年一月八日夜実家の貧しさを知る被控訴人万吉が実家からの浩臣の出産祝を軽減してくれるよう懇請したにも拘わらず、その言に少しも耳を藉さず、被控訴人万吉家出の機縁を作りさえしたのである。

控訴人マツについてみても、前掲各証拠を検討するに、同控訴人が右のような控訴人宗助の言動に対し被控訴人万吉を庇い、養母らしい愛情を以て接したと認めるに足りる証拠はなく、寧ろ常々控訴人宗助に同調して被控訴人万吉に辛く当つて同人を精神的に虐待し、被控訴人が前記家出後下着を少し渡してもらいたいと頼んだ際などこれを実の親に買つてもらえなどといい、養親としての愛情など殆んど抱いていなかつたことを窺わしめるものがあるのである。

そして控訴人宗助は被控訴人万吉の家出後二、三日してなされた井野口との話合、同年二月十六日の被控訴人及び控訴人等の親族に第三者を交えてなされた話合、さらには同年四月の家庭裁判所における調停の際にも徒らに被控訴人万吉をのみ責め、子浩臣の養育費の要求などを持出して話合を粉糾させ、円満な養親子関係の回復を真剣に望んでいたものとは認め難い。とりわけ昭和三十七年十一月被控訴人万吉が子浩臣の将来を考え、再び円満な同居生活を送るべく努力しようと決意して控訴人宗助方を訪れたのに、控訴人宗助は一旦これを受入れるがごとき態度をみせながら、親戚兄弟との絶縁状、親戚兄弟の詫証文を持つて来いと事を構えて返答とし、被控訴人の誠意である努力に対し何ら報いるところがなかつたのである。そうすると、控訴人宗助及びマツ夫婦と被控訴人万吉との養親子関係がこじれるに至つた主要な責任は控訴人宗助等の側にあるものというべく、右認定の事実関係のもとにおいては再び親子としての親密感を醸成せしめることは至難であつて、同控訴人等と被控訴人万吉との間には縁組を継続し難い重大な事由を生ずるに至つたものと認めるのが相当である。

そこで次に、被控訴人万吉と控訴人和子との間における婚姻を継続し難い重大な事由の存否について判断する。

原審並びに当審での被控訴人(原審は第一、二回)及び控訴人和子本人尋問の結果によると、控訴人和子は結婚前は被控訴人に対しいちおう優しい態度を示していたかにみえる。しかるに前記認定の事実に徴すれば、控訴人和子はすでに結婚後間もなく被控訴人に対し家の番頭に対するがごとき態度をとりはじめ、父である控訴人宗助の前記のような言動に同調して被控訴人万吉及びその親類縁者を非難し、夫である被控訴人万吉の言葉に真剣に耳を傾けようとはせず、無理解な控訴人宗助に謝罪することさえ要求しているのである。剰え、原審(第一回)での被控訴本人尋問の結果によれば、被控訴人万吉は控訴人和子がつわりで苦んでいる際には勤めを休んで同控訴人を医者に伴うなど愛情のほどを示していたことが認められるのであるが、控訴人和子は結婚後漸く一箇月を経たばかりの昭和三十五年四月頃紙片に「被控訴人と結婚して後悔している。」と書きつけ、同年八月頃被控訴人万吉の姉酒巻タカ方で被控訴人万吉の母サイ、タカ及び控訴人宗助等のいる面前で被控訴人万吉に向い、「一緒になつて一日として面白い、さつぱりした日はない。死んだ方がましだ。」などといい出して夫を侮辱し、同年八月以降夫たる被控訴人万吉が止めるのもきかず控訴人宗助の命令だとしてわざわざ寝室を別にすること数回に及んでいるのである。

凡そ夫婦たる者は婚姻共同体になる言葉が示すように夫たり妻たる者が互に終生にわたつて協力することによつて維持されて行く精神的肉体的共同体であり、本件のように婿養子たる夫を持つ控訴人和子に課せられた役割として夫たる被控訴人万吉との婚姻共同体を維持すべく努力するのは勿論のこと、自己の実父母である控訴人宗助及びマツと被控訴人万吉との仲が円満にいくよう取持ち、その間に和合の気風を醸し出すべく努力すべきであるにもかかわらず、控訴人和子はかえつて夫たる被控訴人万吉の人格を尊重せず、これを蔑にし、他人の面前で夫に対する愛情のないことを広言するに至つては自ら被控訴人万吉との婚姻継続の意思のないことを表明したものと認められても止むを得ない仕儀というべきである。しかも、いわゆる婿養子縁組において養子と養親との折合が必ずしも円滑でない場合には家附の娘が婿養子とともに両親と別居してその間の調整を図ろうとすることが往々にしてみられるけれども、控訴人和子は被控訴人万吉が家出する際の一緒に別居しようという言葉を一顧だにせず、間もなく同人から受領した夫婦として親とは別居して生活しようという書簡に対しても、両親と暮した方がいいと答え、その後も被控訴人万吉に働きかけて婚姻生活を回復しようという努力をしていないのである。そして、当審での控訴人長和子並びに原審(第一回)及び当審での被控訴人各本人尋問の結果によれば、本訴係属後被控訴人万吉と控訴人和子との間には双方代理人の計いで二人だけの話合がなされたが、控訴人和子が話に乗らないためとうてい和諧に至らず、また原審裁判所においてすゝめられた和解手続の際にも控訴人宗助が被控訴人万吉及び控訴人和子夫婦の別居に同意したにも拘わらず、「私は一つも悪くないのだから、何処へも出ない。愛情の一かけらもない人のところへ行くことはできない。あんたの給料では干乾になる。」といい全く話合にならなかつたのであつて、控訴人和子には被控訴人と夫婦として婚姻生活を維持していく熱意を認めることはできないのである。かくては被控訴人万吉が控訴人和子に対し夫としての愛情を抱かなくなつたとしても当然のことであり、将来被控訴人万吉と控訴人和子との間に愛情に満ちた夫婦共同生活を回復する見込は殆んど絶無に近いものと考えられる。従つて、以上のような事態のもとにあつては被控訴人万吉と控訴人和子との間には婚姻を継続し難い重大な事由を生ずるに至つたものと認むべきである。

なお、当審での控訴人長宗助、同長和子及び被控訴人各本人尋問の結果並びに本件弁論の全趣旨に徴すると、被控訴人万吉はその後昭和四十二年十月頃鈴木フミ子なる女性と同棲し、夫婦同様の生活を送り、昭和四十三年十月十八日同女との間に女児を儲けたことが明らかであるが、右は控訴人和子との間の婚姻関係が完全に破綻してから後のことであり、控訴人和子は被控訴人万吉と融和しようとせず、被控訴人万吉を失望せしめ、自らかかる事態を招いたものというべきであるから、かかる他の女性との同棲の事実を以て被控訴人万吉を問責することはできず、被控訴人万吉の本件離婚請求の正当性を否定するものとはなし難い。

ところで、被控訴人万吉と控訴人和子との間の子浩臣は出生より今日に至るまで同控訴人のもとで生育して来ており、被控訴人万吉とともに生活し、養育されて来た事跡のないことその他以上認定の諸般の事情をあわせ考えると、浩臣の親権者はこれを母である控訴人和子と定めるのが相当であると認められる。

しからば、被控訴人万吉の控訴人宗助及びマツに対する離縁の請求並びに控訴人和子に対する離婚の請求はいずれもこれを理由あるものとして認容すべく、これと同旨の原判決は相当であつて、本件各控訴は理由がない。よつて民事訴訟法第三百八十四条第一項の規定により本件各控訴を棄却することとし、控訴費用の負担について同法第八十九条及び第九十二条の規定を適用して主文のとおり判決する。

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